昭和42年06月11日 夜の御理解



 新しいもの良いものそういうものが愈々、新しいものとして良いものとして頂けて行ける為には、やはり過去のもの古いものいけないもの、そういうものは取り除かれて行かなければならん。いわゆる改められて行かなければならん。いわば取り壊して行かなければならん。そこにさっぱりとしたものが生まれて来るのである。信心の無かった時代それに信心を頂くようになってから、やはりしたり。
 だからと言って信心の無かった事をまあ「急には止められんから」、とこう言やそれまでなんだ。はあこれが本当だと分かったらそれを改めて行く事が信心だと。そこにさっぱりとしたような、ほんとにお道流儀のほんとのお道の信心の、有り難いものも又はおかげもそれに伴うてくるのだと。ここんところを一つ段々自分のものにして行く為には、やはりそうとう時間もかかります。
 やはりあのお道の信心ならお道の信心が、成程お道の信心によらなければあの世この世をもっ、助かって行く事ができないのだ、と言うようなものが確信されてくる時に過去のものが取り除かれて行く。そこんところはですね、非常にこう中途半端まあいうならば、この世でのおかげは金光様。あの世でのなら仏様。と言ったような感じの人達がまだ沢山ある訳なんですけれども。
 これなんかはね、その古いものいわば良くないものと言うたらおかしいですけれども、これが本当だと思う事を思って分かっておりながら、それを壊して行きらないやはり勇気が無いのですね。やはり「元気な心で信心せよ」と仰るのはそんなところにも、元気なものが作られて行かなきゃならん。例えばあの改式一つさして頂きますでも、やはりお道流儀に改式さしてもろうたらやはり。
 あの仏教と言うか、お寺さんとの今までの、いろいろな繋がりと言うものを、断たなければならない。ね。でなければ改式にはならない。もう仏様はまだ拝ませてもらわないかん。まだ仏さんも切るわけにはいかん。お葬式の事もあるけんでち言うごたるで そしてやっぱ金光様とこういうようなではです、本当の面でのさっぱりしたおかげということになってこない。ね。
 だからこの改めて行くとか壊して行くというものはね、必ずその後にさっぱりしたと言うものが、有り難いと言うものが伴わなかったら駄目である。その有り難いものもさっぱりしたものも頂けずして、壊して行くならそれは破壊である。ただ壊すだけである。それをちょうどいうならば、あのガラスのコップのガラスのコップを持ってです、他のガラスを割って行くようなものである。
 なるほど向こうども割れるだけれども、自分自身もやはり壊れておる。そういう破壊じゃつまらんですよね。だから信心をさして頂いてほんとにあの、分からして頂かなければならんとこを分からして頂いたら、それを愈々自分のものに、それをさっぱりしたものにする為には、今までの生きたしきたりとかと言った様な事は、もう恐らく一つ例えば迷信的な事が沢山ございますしね。又煩わしいその何と申しますか。
 例えば子供が一人生まれたり嫁子を貰うたりやったりと色んなその、田舎の風習と言うのがあるでしょう。町の人達もそういう事は知らん位ですけれども、田舎の人達その風習と言うものはやっぱり固執して守っておる。それが良いものは良いですね例えば五月の節句なら五月の節句にちまきども巻いてね、菖蒲湯ども沸かしてそしてそのなんか五月の五日を祝うと言った様な丁度息子の子供の為に幟を立てたり鯉のぼりを立てたり。
 中々その雰囲気と言うよりその何と言うかその、風習というものは、私はこう尊いものだったら取っておくべきだと思うんですよね。けれどもほんとにもう愚にもつかない事。何もならない事のまあやったり取ったりと言った様な事は御座ますよね。けれどもやっぱりしきたりだからせんならんこれではいけない。なら私どもそういうものをもうほんとにあの、新しく改めて行かなければいけないと私は思うのです。
 これは形の事ですけれどもねそんな事が沢山私共の周辺にあります。もうこうせんならんものと。ね。まあもうそれがまるきり儀式の様にそれを大事にしておる人があります。もう本当に自他共に迷惑な事じゃある。ね。ですからねいけないものはいけないものとして私はその壊して行かなければならん。その代りはぁこれを壊したらさっぱりした有り難かったと言うふうになって行く様な壊し方じゃなかないけないと言う事。
 そしてその今度御本部参拝で、あちらへ丁度その3時に着きましたから、4時の金光様のお出ましを久しぶりで拝ましてもらったんですけれども、本当にあの長いご自宅からお広前までの道をです、お供の方5、6人の方達がお供して本当にシズシズとお広前へお出でられます。先頭にやはりお提灯を下げてお出でられます。それこそ昼を欺くような煌煌とした電気が点いとります。もうお庭いっぱいに。
 それでもやっぱりあの道をお提灯を先頭に、お広前に向かわれる金光様の姿というものはいよいよ尊いもの。いやその尊い雰囲気を愈々尊い雰囲気にして行くのです。どうでしょう。「まああげな事は古か」と言うてからですよ、ね、(易者なら易者で?)もう一人でこう持って行ったらどんなでしょう。ね。ですからです恐らく金光教がああして続く限りですね、恐らくああいう一つの。
 れは古いと言や古いのですけれども、それの方が尊いんだ。ね。それの方が有り難いんだ。と言うものはです私はいくら古くても、これは尊ばなければいけないと思うですね。それは以前はあの、金光様がお出ましする時には本当に長いあの道に、皆が土下座してですね「金光様」と言うてその、もう拝まなければおられなかったんですよね。柏手しなければおられなかった。ね。
 そこに宗教的一つのほんとの雰囲気と言うか、有り難いものが感じれたんですけれども、最近それが本部教庁の方で差し止められた。そんな事してはいけん生神様じゃないから。ね。そういうことしては低級なものに見られたらいけんから。そんなら提灯なんて止めたらよか。ね。問題はですねそこにそうしなければおられないものが、その雰囲気に生まれて来る。拝まなければおられないものが生まれて来る。
 柏手しなければおられないものが生まれて来る。こういうようなものはとっておくべきじゃなかったんじゃろうかと私は思うんですけれどね。ただお迎えをするだけなんです。またはお送りを申し上げるだけなのです。とあのお提灯の光を先頭にお出ましの時にです、まあ向こうの方からお迎えをしておる方で、ずうっとあの柏手がですね、パンパンパンとこう波が打って来るようにそのこう響いてきたもんです。
 もう何とも言えん雰囲気でした。けどもそう言う様な事がこの頃無くなりましたです。それを差し止められたんですね。そういう事してはいけないと言うわけなんです。けれども結局は拝む事なんですからね信心とは。こういう事まで私は壊す事はいらなかったんじゃなかろうかと言うふうに感じたんですけれどもね。今ただ今申しますように、あのお提灯がです「もうお提灯は古かから」と言うて。
 (うきせに絶えられたんでは、?)もう雰囲気もなからなければ、尊いものも恐らく感じられないだろう。どんなに私共の感覚が新しく変わって行っても、ね、良いものなら良いものとして育てて行く。そしていけないものは、いよいよそれを壊して行く。今は私御本部参拝いつも皆さん、帰りの時には神様へお土産と言うて、何々と金光饅頭などとお神酒などと、皆でお供えさしてもらうんですね。
 いつも私来ておるもんだとこう思ったんです。今聞いたらいいえお土産は来ておりませんとこう言うた。お土産を貰いたいのじゃないけれどもこういうしきたりはです、ね、例えば良くないものであるならばやはり改めるべきですから、自然がこうやってもうその良くないしきたりを取り壊して行かれておるので御座いますから。これはどうしてお土産持って来じゃったじゃろうかと言うて、私は言う事はいけないと思うですね。
 けれどもそれが有り難いなら、やはり続けるべきだと思うんです。私今度参拝した連中に聞いてみようと思うんです。ね。どうしてお土産を持って来なかったかと言うのじゃなくてです。私はもう昔から他所へ行ってから、お土産を買うて来ると言う事をしなかったんです、もう子供にでも家内にでも絶対。帰ってから帰る時にお土産と言うものを買うて来なかった。他所から頂き物でもあれば持って帰りますけれども。
 これは私の流儀でした。ですから「これが親先生の流儀だから」と言うて皆が、それを尊ぶのならですねこれは結構。けれどもです自分の家には銘々お土産を持って帰っておるとするならばこれはおかしい。まだそういうしきたりを壊す時代じゃない。まああんた方家に帰る時でも、それこそお神酒一丁おせんべい一丁買うて来んで済むようなあなた方なった時には、お広前へ帰ってくる時にお土産も買うて来んでも良い時なのだと。
 と言うふうに私は今度連中らに会ったら、話そうとこう思っておるんですけれども。良くないものならばそれでもやはり、壊して行く事が良いものであるならば、壊してかなければいけない。ね。ただし自分方じゃガバッとお土産買うて行っとってから、そしてお広前には信心が中心である言わば旅行をさして頂きながらですよ、お土産一つ買うて来とらんような、不行届きな事ではほんとの信心いわゆる。




 行き届いた信心と言うことは言えんのだ。ね。そういう悪い風習は、止めなければ、改めなければ、と言うのならば、お広前もさることながら、自分の家にだって、お土産を買うて行かんというような生き方にならなければ、ほんなこっちゃない。と言うふうに、私は感じたんです。ですから、もうほんとに、あの、これを取り上げたなら、どげんさっぱりするじゃろうか。こげな悪い風習を止めたら、もうほんとに、世話が抜けるのに、と言うようなことはです、もう思い切って改めて行くべきですね。
 いわゆる壊して行くべきです。ね。けれども、これだけは、いつの時代になっても、壊されないと言うもんもです、いよいよ、私、良いものに、尊いものにして行く為にです、いわゆる、(「不壊の金剛心」?)とでも申しましょうかね。不壊と言うのは壊れないと言う意味なんです。ね。それを信心では、信念と申します。誰が何と言うても、自分の信念だけは壊されない。「火にも焼けない、水にも流されない」それが信念なのである。
 そういう尊いものは、尊いものとして、いよいよ、それを育てて行かなければならん。と同時にやはり、新しいものが生まれて来る為には、古いものはやはり、壊して行かなければならん。おしいけれども。まだ未練があるけれども。それらのおかげであるならば、やはり、壊して行かなければならない。それを、私は改まるということだと、こう思うんですよね。
   どうぞ。